東北地方太平洋沖地震
避難所に行った事なんて初めてだったし、今後の備えのために....〆(・ω・` )メモメモ
2011/3/11
書類提出のために川内キャンパスにいたところで地震に遭う。右往左往していたところで、職員の方に逃げようと言われて、外へ。地震で外に逃げることすら初めてだったと思う。建物が揺れているのが、外から見てもわかる。後日見に行ったらこの建物には黄色の紙(建物の倒壊の心配はないけど、内装がやられていて危険)が貼られていた。
この時点ではまだ地震の大きさが分かっていなかった。とりあえず研究室に顔を出そうと青葉山へ。青葉山でも皆が外に避難していた。先生方と何人かの研究室メンバーに会い、しばらくして帰宅。
街中は停電しているものの、ひどく崩れた建物とかはなくて、まあこの分なら我が家も無事だろうと思った。アパートも一目被害が無いように見えて、部屋に入ろうと裏に回ってびっくり。あとガス臭い。
アパートの住人と合流。挨拶回りなんかしなかったし顔を合わせるのも初めて。2階に取り残された人も誰かが梯子を借りてきて脱出。
2階の人が梯子を使って荷物を取り出しているし大丈夫なのでは?と室内に入る。幸い、1階だしドアが塞がれてもいなかった。ひどく散らかっていたけど、別に棚が倒れたりはしていなくて中身が落ちただけ。メタルラックは突っ張り棒付きか、机に縛り付けてあるかだった。あの地震に耐えられるなら家が崩れない限り大丈夫そう。部屋の配置はベッドの上に物が落ちたりしないようにと考えていて、ベッドの上にあるのは積んでいた本が崩れたものだけ。こっちも今後も大丈夫だろう。何持ち出して良いか分からなかったけど、とりあえずお菓子と備蓄していたミネラルウォーターを持って外へ。
避難所に行くかどうか話していたアパートの住人が居ない。この地域の避難所ってどこなんだろう? 事前に調べておくべきだった。反省。ちなみに後日調べたところ、仙台市はこの地域はこの避難所というような割り当ては無い。行った小学校が一番近かったので、結果的に正解だったようだ。
人いっぱい。暗くて、アパートの人達は見つからない。
この辺でdocomo回線がかろうじて復旧。実家にメールを送る。地震の時は地震直後は回線が使えるがしばらくすると使えなくなることが多いらしい。あと、回線が通じていない時は電池の減りが速いので、こまめに電源を切ると良いらしい。
私の想定としては、水があれば1日くらいなんとかなるし1日あれば避難所の備蓄とか支援物資とかあるんだろうなと。実際は避難所にそんなに物資があるわけではないし店が開いても当分は品薄なので、レトルト食品のように電気が無くてもor電気だけあれば食べられるものを常に家に置いておくべきだった。
2011/3/12
特にすることがないので、避難所でぼーっとする。
皆が携帯電話の電池を心配し始める。手回しや太陽電池で充電しようとしている人もチラホラ。乾電池が家にいっぱいあって良かった、と思ったけど、このタイミングでスティックブースターが故障。以前に分解しようとしたせいだ……。MacBook Airが携帯の充電に役立った。
情報の入手手段として、携帯電話はネットもできるしワンセグも見られるのだが電池が持たない。電気が無い状態で安心して付けっぱなしにできるのはラジオだけだった。
アパートの契約は書類のやりとりだけで、顔を合わせるどころか電話で話したことすらない大家さんと会った。大家さん曰く、10日くらいで瓦礫を片付けて仮の足場を作ると。あと、大家さんの事務所に泊めてくれると。水道も出るし電気も自家発電があるらしい。ありがたい。この夜、大家さんの事務所のあたりは電気が復旧したのだが、近くのアパートはまだ。
2011/3/13
アパートの周囲の電気が復旧したと聞いて、ブレーカーを上げてみたら電気が付いたので、アパートに戻ってきた。
2011/3/14
水道も復旧。